人生やり直しはきかない

思考

人生のやり直しって、できると思いますか?

やり直しは、改めて行うこと、つまり再び始めることですよね。最近、休職してしまってからというもの、「どこで道を間違ったのかな」「あのときこうしておくべきだったかな」「もっと良い選択があったのかな」などと考えることが多々あります。

「完璧主義なところが自分を苦しめているよ」というアドバイスをいただいたときには、「どこかで手を抜くべきだったのかな」「じゃあ、あの仕事は7割のクオリティと頑張りにとどめておけば、今頃こんなことにはなっていなかったかな」など、節目節目をあーでもないこーでもないと振り返ったりもしています。

しかしながら、今さらこのようなことを悶々と考えても、人生にやり直しはきかないと思うのです。

やり直しは、改めて行うこと。あのときこうすればよかった、という節目に再び戻って始めることなんてできません。でもなんだか、世の中には人生やり直しがきくという言葉が蔓延していますよね。何歳からでも人生やり直せる!と。

こういう言葉を目にしたときに思うのは、
「立て直しならできるのかな」ということ。

やんかな
やんかな

いや待って、屁理屈やめなさい

ごめんなさい。自分でツッコミを入れる程、屁理屈感はすごいと思います。
でも、やり直すと立て直すって、心構えが違うと思うんです。

やり直しは、これまでの人生を無かったことにして新しく再び始めること。
立て直しは、これまでの人生を受け入れてこれからの人生の方向を定め直すこと。

こんな感じがしているんです。うーん、やっぱり屁理屈かなあ?

まあ、屁理屈なのは分かっていますが、やり直し、リスタート、みたいな言葉の持つ「さあこれまでの人生は捨てて、心機一転、新たな人生、ここからスタート!」みたいなポジティブさがわたしにはどうもしっくりこないんでしょう。根暗だから。

それよりも、自らの失敗や至らなかった部分、時間を無駄にした事実さえも認めてしまって、恥の部分も苦しみながら受け入れて、「さあ、立て直すか」みたいな静かな覚悟の方がすっと自分の中に入ってくるのです。

実際、わたしの人生は時間を無駄にしたことだらけだったと思います。こうしておけばという反省ばかりですし、選択を間違った!ということも、失言も、失態も、運の悪さも、全て挙げていけば恥ずかしさと後悔で心臓が押しつぶされそうになります。でも、それらすべてを自分の一部として取っておいて、過去と現在の延長線上に未来を作っていく立て直しが人生の醍醐味なのではないでしょうか。

これまでの失敗や無駄がなければ今の自分はいない、ということを強く感じるのは、今のパートナーとも出会えていなかったのでは、と考えるとき。彼とはじめてちゃんと会話をしたあの日、「こんなに嫌なことばかりでこの数年を無駄にした」とぼやいていたわたしに、「自分が許せないこととかがわかったからいいじゃないですか」と言ってくれた。そのことがきっと、わたしの人生立て直し理論に影響を与えています。無駄にしたという感覚も間違っていないけれど、その負の感情からも学ぶことはあったよねと。だから、立て直すというマインドでいれば、結局のところ、死ぬときには無駄じゃなかったと思えるのかもしれない。やり直しをせず、人生をひとつの物語として完結させられるかもしれない。

これから先、2024年にした選択を「間違った」と思うときがくるかもしれない。でも、そのときにまた立て直せばいい。そして、悩んでもがいた不器用な自分を、愛らしいキャラクターとして物語の主人公にしていければと思う。

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